これが 始まり 「道案内を、してくれないか」 突然、声をかけられて、峯山 真吾は驚いて立ち止まった。 ――気付かなかった。 何の気配も感じず、一人無防備に歩いていた時だったのでなおさら狼狽し、跳ね上がる心臓を抑えつけながら平静を装って振り向く。 「はい?」 すると、声をかけた人物は、もう一度ゆっくりと言った。 「道案内をしてくれないか」 道案内。いまいちピンと来ない彼は、多少戸惑いながら聞き返した。 「僕がですか?」 すると、相手の男はゆるりと口の端をつりあげ、言った。 「そう、君がだ」 「えっと・・・でも、僕はあまりここらへんは詳しくないんですけど・・・」 道案内なんて面倒くさそうなことは、なんとなく嫌だった。歳をとったおばあさんや小さな子供、女の子ならやる気にもなるが、年齢不詳の黒ずくめなんかを道案内するのは誰だってなんとなく嫌だろう。 ――黒ずくめ? その時、峯山真吾は初めて相手が黒ずくめだということを認識した。いや、見てすぐ黒ずくめだということはわかっていたのだが、別段気になりもしなかったのだ。 ――俺、ボケたかな。黒ずくめなんて珍しい人見て何も思わないなんて。 そう、相手は本当に黒ずくめだった。明治・大正の頃の絵に出てくるような裾の長い外套。深くかぶった鍔広帽。鞣革でできた縫い目の少ない手袋。それら全てが黒かった。 そして、白蝋のような肌。色素の薄い唇。鍔広帽を深くかぶっているせいで目元は見えないが、恐ろしく整った美貌であることがわかる。 「構わない。誰でも知っているはずだからね」 ゆっくりと紡ぎ出される声は、思考を絡めとるように響く。 「誰でも、知ってる・・・?」 「そう。ここらへんに、***という表札のかかった空き地があるだろう。そこへ、連れて行ってくれないか」 「ああ、それなら知ってるから・・・」 そう答えて先に立って歩き出す。 ――さっさと案内して、さっさと帰ろう。寮は閉まるのが速いし。 そう思いながら。 そんな暢気な日常は、今日で真実最後だということも知らずに。 「ここ――だと思いますけど。」 黒ずくめを案内したのは、昔は大きな屋敷が建っていたと言われる、けっこうな広さの空き地だった。大きな屋敷が建っていたのがどのくらい前なのかは知らないが、今は跡形もなくなって、草は好き勝手に生えていたし大きくはないが木もまばらに生えている。小学生の頃は秘密基地ごっこをして遊んだ場所だった。 家は跡形もないくせに塀だけはしっかりしていて、黒ずんだ大谷石が何もない土地を囲んでいた。 「ああ、全く変わっていない。懐かしいことだ。そして素晴らしく変わっている。嬉しいことだ」 黒ずくめは真吾には答えず、空き地を見回し、大仰に両手を広げ、そう言った。そして流れるように空き地の真ん中に向かって歩いて行く。 不意に、空き地の真ん中に何か、色あせた茶褐色のものが見えた。今まで何も無かったはずなのだが、見えなかっただけなのだろうか。 黒ずくめはその前で立ち止まり、何も言わずにそれを見下ろしている。真吾は、手持ち無沙汰なのに耐え切れず、黒ずくめに近寄っていった。途中でやたらと虫が寄ってきた。暦の上では春とはいえ、まだ冬である。元気なこった、とつぶやいた。 黒ずくめに近寄るに連れ、色あせた茶褐色のものがはっきりと見えてくる。 それはスズメバチの巣に似た、巨大なきのこだった。 かさの表面はぼこぼこと不規則に隆起し、肌色に近い、しかし生気の感じられない色は妙にグロテスクだ。 そして、その根本。 きのこの苗床なのだろう、地面に仰向けで倒れているのは人間だった。腹を破って鎌首をもたげた巨大なきのこ。服についている黒い染みは、血だろうか。その人物はとっくの昔に息絶え、苦悶の表情を浮かべたままの木乃伊の様な顔は水分を失ってカラカラに干からびていた。 ひどく気味の悪い光景だったが、真吾にはこの光景が、目の前の黒ずくめにひどく似合っているような気がした。 黒の麗人と人茸。 この期に及んでもパニックにならなかったのは、夢のような非現実感を演出している目の前の黒ずくめの影響に過ぎない。真吾は、ただただ口と目を丸くしているだけだった。また虫が近づいてきた。元々蚊には刺されやすいが、冬にはあまり蚊にも出会わなくてすんでいたのに。 無意識に虫をはらう真吾を見て、黒ずくめは面白いものを見つけたように言った。 「ほう。君は虫に好かれるようだ」 ゆるりとわらって。それから、ついでのように、忠告をもたらした。 「ならば、ここにはいない方が良いのではないかな?ここは蟲の溜まり場だからね」 「え?」 言ったときには、遅かった。 「え?」 そう言ったときには、もう眼前に蟲がいた。否、蟲というのは正しい名称ではないだろう。虫のように足が六本有るわけでもなく、甲虫のように甲殻を持っているわけでもない。 ただ、その骨と皮でできた板の真ん中に、虫の複眼でできた人間の目玉がぎょろりと覗いていた。ひらり、ひらりと枯葉のように舞いながら、確実に真吾に視線を向けている。 「ひっ・・・うわっ!」 足元の草の間から、ころころと太った青い蟲が這いずり出てきた。それに足はなく、ぬめりとした体でナメクジのように這いながら蜘蛛のような牙を剥き出す。 蜂のような羽音をたててぶつかってくるものを手ではらった。べしゃりとつぶれて異臭を放つそれは、真っ赤な体液をこぼしながらみみずの様にのたくった。 草をかき分ける音にそちらを向いて見れば、何かの頭蓋骨にしか見えないそれがぴんと張った髪の毛のようなものを地面に突き刺し、不安定ながらもこちらに近づいてくる。髪の毛は細く見えにくいため、何かの頭蓋骨が宙でゆらゆらゆれながらゆっくりこちらに近づいてくるようにも見える。 冷静に対処すれば、それらから逃げることはできたかもしれない。しかし、想像すらしなかった明らかに生物でないモノたち。 真吾の中で、未知への恐怖が爆発した。 「うわっうわっうわあうぅああぁあっ!」 奇怪な蟲たちが自分に向かって前進を始めたのを確認する暇もなく、できる限りの勢いで後じさる。崩れた大谷石の欠片につまづき、仰向けに倒れて思い切り背中を打ちつけた。 一瞬息がつまり気が遠くなる。 目の前に見えた枯葉にぎょろりと光る目玉を発見して飛び起きる。 呼吸するだけで痛む背中に悪態をつく余裕もなくふらついた足取りで蟲から逃げ、驚愕のあまり狭まった視界で逃げ道を探す。その視線が、草の生えていないアスファルトの路面を捕らえた。 もう何も考えず、そこへ向かってふらつきながら走る。 目の前に草と大谷石の破片が見えた。どんどん近づく。近づいてくる。 ――あれ、さっきまで道路が見えてたはずなのに・・・・・・? わずかに戻った理性がそこまで考えたとき、額の真ん中にものすごい衝撃を感じ、痛みを自覚する間もなく真吾の意識は闇に堕ちた。 転んだ勢いのまま正面から大谷石の破片に頭突きをする羽目になった真吾の額から、多量の血液が流れ出していく。完全に気絶した真吾ににじり寄っていく蟲たち。 蟲たちは真吾にたどりつくと真吾を喰らいはじめた。蟲たちに喰われた場所は忽然と消え、血すらも流れない。紙に書いた絵を消しゴムで消すように、存在そのものが喰われ、消えてゆく。 その動きがぴたりと止まった。 蟲たちは突然に方向を変えると、巨大なきのこのほうへと群がっていく。 きのこはバラバラになっていて、その体積を三分の二ほど減らしていた。 きのこの苗床だったものも、いっしょにばらばらになって散らばっていた。 「――――――――ふ、ふふ、ふ」 蟲たちがご馳走を咀嚼する音だけがこもる空間で、混沌の声はそれを圧して響いた。 「っ!・・・・・あ・・・?・・・・・・。・・・あぁ・・・。夢か・・・・・」 寮のベッドから転がり落ちたまま、真吾はつぶやいた。 「勘弁してくれよ・・・こんな気味悪ィ夢見るようなこと、なんか俺、したっけ?いや、断じてない・・・ないぞ・・・ないはずだ・・・俺にそんな趣味はない」 寝起きで混乱する思考を何とか鎮めようとぶつぶつとひとり言をつぶやく。寝汗をかいていたのか、ぐっしょりと濡れたアンダーシャツの感触。こめかみや額にも髪の毛が張り付いている。 「大体・・・なんだありゃ。どっかの秘密組織さんですか?ダブルオーセブンですか?メンインブラックですか?ヘンタイさんですか?ワッツザットですか?・・・あー疲れた。なんかボリュームのない光景を作って・・・作って・・・?・・愛してるよー」 微妙に意味不明な展開を見せるひとり言は、次の瞬間ぷつりと途切れた。 汗で額にはりついた前髪をかきあげる手に、違和感。異和感。 額の真ん中。 夢で思いっきり打ちつけたそこに、ざらりとした感触。嫌な予感に、背中が総毛だつ。背中も打ちつけた。 意識を集中するまでもなく、鈍い痛み。全身から嫌な汗がふきだす。 脳裏にあの奇怪な蟲たちの姿がよみがえった。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ―――――――――― 「現状は把握できたかな?峯山真吾君」 低い声。男か女かもわからない。 はじかれたように振り向いた。 黒い人物。 右手で帽子を押さえ、目元は見えず。黒ずくめの全身は夜明け前の闇に溶け、白蝋のような肌の顔の下半分だけがくっきりと闇に浮き出ている。そして、ゆるりと弧をえがく唇。 「お前・・・・・・っ!」 絶句した。 なぜここに。 「なぜ、ここにいるのか、と訊かれれば、君をここに運んだからなのだが」 見透かしたように言葉を紡ぐ。 「残念ながら君の全ての質問に答えることはできない。落ち着きたまえ」 また、見透かしたように言葉を紡ぐ。落ち着け、と言ってはいるが、己が混乱の原因の最たるものだということを理解しているのだろうか。 とりあえず、深呼吸。深く吸って、吐く。深く吸って、ゆっくりと吐き出す。 混乱した頭が少しずつ整理されてくる。 まだ寝転がったままなのに気付いた。 とりあえず身体を起こす。ベッドに座って、目を閉じた。 まだ混乱した頭を必死に落ち着かせる。爆発して恐慌しそうになる感情を必死に閉じ込め、理性で鍵をかける。思い出しそうになる昨日の出来事。それも一緒に閉じ込める。 目を開く。 黒ずくめのほうを見る。 「あれ・・・?・・・?」 そこには、何もいなかった。 黒ずくめの人物などどこにもいなかった。白々しいまでに、そこには何も無かった。 「・・・・・とうとう俺、ボケたかな・・・」 首を傾げつつ元の体勢に戻る。 すぐ目の前に真っ黒い外套。 ひっ、と喉が鳴った。 慌てて後じさり、またベッドから落ちる。 「・・・・・・。・・・・・!」 一瞬呆然としてから、また起き上がる。ベッドの向こう側を見ると、黒ずくめの人物は今度はきちんとそこにいた。 「な・・・・・え?いつからそこに!」 「何処にでもいるし、何処にもいない。それが最も当てはまる答えだよ」 ゆっくりと、答えた。 「・・・?そーじゃなくて、じゃなくてお前何なんだ!」 「何か、と問うのだね。ならば私に返せる答えはたった一つしか存在しない。そう―――――私の名は、闇夜業暗。それが私の存在を表す唯一絶対の、無二の解だ」 そう宣言するように答えた『彼』は、どうしようもなく混沌としたものを感じさせて。それなのにどこか透きとおった闇を連想させるようなものも、『彼』の内には存在しているようだった。 「・・・・・・・・!」 「君は蟲に好かれる体質をもっている。それはあらゆる蟲を惹きつける。それは、さながら光に惹かれて集まるように。」 ゆっくりと語る『彼』の周囲にはブラックホールのような暗闇が沈殿している。その闇は、果たして『彼』自身が発するものなのか、『彼』に惹かれてくるものなのか。真吾には、そのどちらでもない気がした。 「君は蟲を魅せる力を持っている。それはさまざまな蟲が意味も無く惹かれる力だ。君が命ずれば全ての蟲が君に従うだろう。君の持つ甘露の泉に惹かれて」 「な・・・何言ってるか・・・わかんねえよっ!何なんだよっ!昨日の・・・!昨日のあれは何だっ!あんた知ってるんだろ!?」 「勿論の事。君は偶然巻き込まれただけの普通の人間だった。あの時までは」 そこでいったん言葉を切って、ひどく愉しそうに真吾を見た。漆黒の双眸が、緑がかった茶色の双眸を射抜く。 初めて見た『彼』の瞳は、酷く透きとおった黒だった。不純物の無い何処までも透きとおった宇宙。光が存在しないゆえに、何処までも闇しかなく、何処までも透き通っている。一度魅入ったら二度と戻れない。そんな恐怖を感じさせるのに、その瞳に支配されて、深く安らかな眠りに身をゆだねたい。そんな強烈な睡魔にも似た誘惑を放ってくる。 「君は知りたいかね?自らの甘露の泉が開かれてしまった訳を。それは偶然の折り重なった出来事でもあり、私の招いた必然でもある。巻き込まれた君には聞く権利があるし、招いた私には守る義務がある。君が当然そうあるべきだと望んだからこそ、私はここにいるのだよ。それが道理だと君が心底から信じていなければ私はここにはいない。」 「・・・・・・訳わかんねぇけど。とりあえず分かるように説明しろよ」 若干の恐怖を残したまま、上目遣いに見上げてくる真吾を、『彼』、闇夜業暗は陰を含んだ笑みで迎えた。 「・・・君は私が創った異空に踏み込んだ。あの異空は――――君も見ただろうあの蟲を引き寄せるモノを作るためにあの場所に創った異空だ。あれはそもそも知り合いに頼まれて作っていたものなのだよ。そして君が侵入したために異空が多少歪んでしまってね。もともと蟲の溜まり場だったあの場所に、異空が歪んだことでまた蟲が流れ込んできたのだよ。さらに蟲にとってのご馳走が存在したことも、蟲が流れ込む原因となった。私の作っていたもの。そして君という一滴の蜜だ」 「異空?」 「空間を区切って別世界にしたものだ。規模が小さければ結界とも呼ばれるし、規模が大きければ異世界、異次元とも呼ばれる。自然発生するものもあれば人為的に作り出されるものもある。人為的に作りだしたものの例で言えば―――――君のいる学校、それが君にとって最も身近な異空だろう。学校特有の空気というものを感じたことはないかね?学校なら許される。またはその反対。学校の中と外は別世界だと、思ったことはないかね?」 「え・・・まあ、ある」 「それが異空だ。異空は人が存在する所に特に多い。自然でも異空は作られるが、人間が作り出したものほど複雑怪奇なものはない。」 一旦言葉を切り、滑るとしか表現しようのないほどなめらかな動きで椅子に座る。 あ、あれ俺のイス。 などとどーでもいいことで妙に不愉快になる。そんな事を考えている場合ではないのに、どうでもいいことを考えてしまうということ自体夢であってほしいという現実逃避なのかもしれない。 「蟲は私の作った異空に流れ込んだ。蟲は私の作っていたものに群がるはずだった。君を一滴の蜜に例えるならば、私の作っていたものは蜜蝋の巨大な塊だったのだからね。しかし私とて時間をかけて作ったあれをすべて蟲に渡してしまう訳にはいかなかったのだよ。私はあれを回収するまでのほんのわずかな時間、あれのまわりだけを異空にした。しかし今までただよっていたご馳走の匂いまで消せるはずもない。だから蟲は―――」 「同じ蜜の匂いがする俺にたかったって?ふざけんな」 男はくく、と悪魔のような、否、悪魔よりも虚無にまみれた笑みを漏らした。 「君は馬鹿ではないようだね。そう、君はあの時はまだ普通の人間だったのだよ。君はあの時意識を失った。動かなくなった蜜に、蟲が群がらないはずはない。真実君は喰われかけたのだ。あの異形の蟲たちに」 言葉を失う真吾を目を細めて見つめ、流れるように続ける。 「私は君を見捨てても構わなかった。私が君を巻き込んだのは確かだが、だからといって君を助ける理由にはならない。しかし私は君を助けた。君が、私は君を助けるべきだと思っていたからだ」 「・・・何ワケわかんねぇこと言ってんだ!お前が俺を巻き込んだんだったら普通助けるだろうが!」 「それだよ。」 彼は、ゆるりと笑った。 「君が、『自分が何かに巻き込んでしまった者は助けるのが普通だ』と思っていたからこそ、私は君を助けたのだよ。仮に『何かに巻き込んでしまっても助けないのが普通だ』と君が思っていたのならば私は君を助けることはなかった。そこまではわかるかね?」 「・・・・・」 「結構。つまりは君自身が君を救ったのだと思えばいい。私は『私』の常識、『普通』をもたないが故に『普通』を持つ者に影響されてしまうのだよ。そして、その影響は矛盾が少ない常識を持つ者ならばなおさら大きい。君はなかなか人間的に見れば素晴らしい人間のようだね。常識に矛盾が少ない。これほど矛盾が少なくなければ私も影響はされなかっただろう」 「・・・・・???????よ・・・よーするに常識の矛盾ってのは・・・えっと?」 「一番わかりやすい言葉で表すならば、公平、平等ということだよ。自分には甘く、他人には厳しいというのは常識の矛盾の最たるものだ。この矛盾は多かれ少なかれ誰もが持っている。さらにあげるならば、贔屓や差別や選民意識なども身近な常識の矛盾として多くの人間がもっている。細かくあげるならばきりがない。これら常識の矛盾が、君はとても少ないのだよ。そのせいで私は君の『普通』に影響され、君を助けたのだ。―――――前置きが長くなったが、私が君を助けたことによって君は一滴の蜜から甘露の泉にまでなってしまったのだ。」 「だから!さっさと先を話せっての!なんでその〜えっと、俺が虫を引き寄せる甘露だかなんだかになったんだよ!」 「虫ではない。『蟲』だ。甘露の泉となった君には、もう虫は近寄ってこれないのだからね。君は蟲たちに喰われかけ、存在が危うくなっていたのだよ。喰われ、消えた存在を再生するには、私が直接手を出すと世界に歪みが起きる可能性があった。だから私は君を助けるために私の作っていたものの一部を君に食わせた」 「――――――――――」 真吾の頭の中に死体から生えた巨大キノコがフラッシュバックした。瞬間的に吐き気をもよおす真吾に構わず、彼は続けた。 「涸れかけていた蜜に巨大な蜜蝋を与えたことになる。蜜は再び甦ったが、蜜蝋を吸収したことで生来持っていた蜜に刺激が与えられ、今まで持っていた蜜や与えられた蜜蝋よりはるかに濃厚な香りを放ち、はるかに純度の高い、大量の甘露ができあがった。そして甘露の泉が君の中に湧き出したというわけだ。理解できたかね?」 「そこまではわかった。よーするに巻き込まれた俺が喰われて死にそうになってたところを、俺が「フツー助けるだろ!」って思ってたからキノコ使って助けた。そしたら俺は助かったけど、前よりもずっとタチの悪い蟲に寄ってこられるようになっちまった。と。そーゆーわけですか?」 ぱん、ぱん、ぱん。 手を打ち合わせる音。拍手というべき行為なのに、どうしてもそう思えない。 「そのとおりだよ。そして、君の『常識』に影響されている私としては、君を助けなければならない。そうではないかな?峯山真吾君」 絡み付いて抵抗の気力を奪っていく睡魔の、永眠の誘惑。口の端をつりあげる。笑うという行為のはずなのに、誰が見ても決して笑いではないと思うような、なにか。 背筋を虫が這い上がっていくような嫌な感覚。それを数十倍にして味わっているようなすさまじいおぞましさ。蟲に襲われたときとは比べ物にならない、目の前の存在に対する恐怖。 「っ・・・・・っ」 真吾は思わず身震いした。無意識のうちに後ずさりをしようとする身体をどうにか抑えつける。 黒の麗人はそれすらも見透かすようにうっすらと嗤う。 明け方を前に白みはじめた空が、徐々に徐々に闇を駆逐してゆく。 太陽などでは決して駆逐できない混沌の闇を前に、真吾はただ息を呑んで睨みつけるばかりだった。 「おーっす」 「おはよー」 燈海高校の朝は遅い。 勉強も月並み、特に目立ったところのない平凡な学校であるこの高等学校は、それにもかかわらず、鬼才・奇才が多い。そう、なぜか、天才ではなく、あくまで鬼才・奇才が多い。 そのせいか微妙に校則の緩い学校になっているが、もちろん一般の生徒も通っているし、鬼才・奇才が揃っているからといって学校が有名になるわけでは、もちろんない。運動に関してはオールマイティでオリンピック全ての科目を新記録に塗り替えられるんじゃないかという人物もいれば、明らかに世間で公表されていない画期的な新薬を次々発明する人物もいれば、巷で大人気のラジオ番組に出演していて、様々な分野の専門学者顔負けの知識を披露する人物もいる。 他には五つ子もいれば霊能力者もいればオカマもいる。学校指定の制服を着ずに野戦服を着てくる者もいれば着物で来る者もいる。 明らかに犯罪者的な人物もいれば裏世界の事情に精通している美女もいる。 とにかく、燈海高校とはそういう所だった。 「あれ、真吾?どした?」 「何でもねーよ・・・」 「峯山?この世の終わりみてーな顔してるぞ?」 「そーか・・・」 「峯山君?どうしたの?顔が青いよ?」 「ちょっとね・・・」 クラスメイト達の心配げな声を受け流しつつ、峯山真吾は深い深いため息をついた。 |